北条氏は、みずからを「文観」と称し、曼陀羅の絵図を地面に敷いて、そのうえで妻と交わり、自分の漏らした精液を練り固めてつくったKを信者に分け与えました。
やがて、邪教を広めた罪で京都を追放された文観は、武蔵国(今の東京・埼玉)の立川に住みついて、あいかわらず自分の流派を広めつづけたので、人々は、これを「凱川流」とよびました。
文観はさまざまな印信(秘法伝授の証菩)や経文などを偽造しましたが、正統派を自任する真言宗の僧侶たちが、それらを探り出し、大部分を破棄したといいます。
立川流は駿河を中心に一時かなり広まりましたが、江戸時代に人って徳川幕府の大弾圧を受け、ほとんど絶えたといわれています。