1899年夏のことでした。

前記のエイア社のマッキニーがグリーン社長に呼ばれ、2人はいろいろな名前を考えました。

しかし、最後にマッキニーの思いつきで、「ユニーダ・ビスケット」がよいということになりました。

これが相当大当たりしたそうです。

1年後には月1000万箱が売れ、「ユニーダ」というブランド・ネームをいやが上にもアメリカ全国で高める結果となりました。

同社の新しいマーケティング戦略は図に当たりましが、これには抜群の全国的広告キャンペーンが効いたのです。

エイア社の顧客へのサービスで有名になったケースは、前記のナショナル・ビスケット会社の場合でした。

19世紀においてはクラッカーやクッキーには銘柄品はありませんでした。

いわば小麦やとうもろこしと同様バルキー商品として扱われ、どこの会社でつくられたかもわからず、ときにはきたない樽詰めで運ばれることもあったそうです。

しかし1890年代に、製菓業界は競争激甚となってきまいsた。

そこでアドルファス・グリーン社長はブランド:不ームをつけて、全国市場に宣伝しようと決意しました。

製品を差別化するために、ビスケットの4隅を削って8角形にして包装用の箱に入れました。

しかし、製品差別化の最も有力な手段は、ブランド・ネームをつけることでした。


調整手当という賃金項目を採用する企業は比較的中小企業や派遣 東京に多い。


その目的も多様です。


・「初任給調整手当」

バブル景気の全盛時代から学卒初任給が急騰したため、在籍従業員との賃金バランスが乱れた。


このため多くの企業では、一時的処置として設定した手当です。


・「新賃金体系移行のための調整手当」

年功給から職能給などの新しい賃金体系に移行する際に生じる差額金を調整するための手当です。


・退職金の制度変更のための「調整手当」

たとえば、従来の一律増加型の退職金制度からポイント制などの制度変更に伴う調整の意味での調整手当です。


この種の手当はほとんどが、過度的に設定された場合が多く、できだけ早期に基本給かその他の手当に算入される性質の手当です。

エイア社は1879年に、早くも市場調査のはしりとでもいうべきサービスを、広告主のために提供しています。

エイア社のパートナーのヘンリー・N・マッキニーは、ある時顧客の脱穀機メーカーに呼ばれ、全国市場への販売促進のために、新聞社のリストを作成することを頼まれました。

もちろん、そんな仕事は代理店のやることではありませんというわけにはいかなかったそうです。

マッキニーは社に飛んで帰ると、時間に制限があったので、全国の州当局ならびに新聞社に電報で問い合わせをしました。

こうしてわずか3日間で調査をまとめ上げ、広告主にリポートを提出したのです。

同社は1900年に、このような市場調査を行う専門部局を設置しています。

これに対して他の代理店がこの分野に入ってくるのはおそく、1910年ごろようやく一般に取り入れられるようになりました。

シャーウッド・アンダーソン(1876~194一年)、F・スコット・フィッツジェラルド(1896~1940年)、スティーブン・V・ベネ(1898~一943年)、ジョン・マークワンド(1893~1960年)といったアメリカの作家や詩人たちは、いずれも若い時にコピーライターの仕事をしているのは興味深いです。

広告代理店の顧客へのサービスはコピーライティングだけにとどまらず、それ以上に進みました。

広告主のニーズが拡大すればするほど、彼らはそのマーケティング戦略について、全面的に協力するようになったそうです。

広告主へのサービスにかけてはどこよりも先行しており、最も早く専属コピーライターをおいたエイア社は、1893年に

「広告の制作はわが社の仕事ではありません。そのほんの一部にすぎず、常得意のためにだけ、わが社が提供するのです」といい切っていました。

とくに製造業者はすでに全国市場を対象としていただけに、広告代理店にとって生き残る機会は、彼らの全国的規模の販売キャンペーン、そしてさらに広くはマーケティング戦略全般に寄与することだったそうです。

1880年に同デパートは、広告文案作成のためにジョン・F・パワーズをやといましたが、広告業史のダニエル・ポープによると、この人はおそらくコピーライティングで生計をたてたアメリカ最初の人といわれています。

「パワーズ・スタイル」のコピーがそのころ一世を風靡しました。

ワナメーカー社によると、1890年には「パワーズ・スタイル」を真似したデパートが、全国で50以上にものぼったといいます。

しかし、広告代理店のこの面における対応は遅かったのです。

エイア社がここでも代理店のなかでは先鞭をつけたが、常勤のコピーライターを雇ったのはようやく1892年でした。

それでも1900年にはコピー制作は代理店サービスのなかに定着し、標準化されるようになったそうです。

しかし、それが行きすぎて、一時は代理店の仕事はコピーライティングだと思われるようにさえなりました。

1890年代以前には、広告代理店には広告の制作を専門とする従業員は誰もいなかったそうです。

当時成長期にあったデパートは、コピーライティングの仕事が必要であったにもかかわらず、広告代理店はこのサービスを提供できなかったばかりでなく、多額の広告予算を持つデパートは代理店の世話にならず、新聞社から直接、大量のスペースを買いこんでいました。

1899年にはニューヨークとシカゴの大デパート20社は、年間に178万ドルの広告費を使っていたといわれます。

また当時最大のデパート、フィラデルフィアのワナメーカーは、年間30万ドル以上を広告費に支出していました。

広告主としてはもちろんアメリカでもトップでした。

1876年、建国百年記念博がフィラデルフィア市で開催されるのを当てこんで、巨大な新しい店を開いたワナメーカーは、大成功を収めていました。

★広告代理店

19世紀の間は、広告代理店は競争企業であろうと何であろうと、注文をとることでは意に介するところがありませんでした。

彼らはスペース・ブローカーにすぎなかったからです。

しかし、彼らの広告主に対するサービスが増大し、多様化するにつれて、一業一社が広告業界の鉄則となったのです。

エイア社がこの問題に最初にぶつかったのは、1899年における同社最大の顧客ナショナル・ビスケット会社(のちのナビスコ)のケースでした。

エイア社がライバルの製菓会社から注文を受けたことに対し、ナショナル側から激しい反対が出て、これに従わざるを得なかったのです。

第3にエイア社が前述のようにあえて新聞社離れをし、広告主側に鞍替えしたことは、スペース・ブローカーからの脱却の意思表示であったと同時に、広告代理店を新しい多様なサービス産業に転換させたことで、先駆的で広告業史上まったく画期的なことでした。

★広告代理店

広告代理店が新聞社から「独立」して、ミッドタウンのマディソン街に移動したのは、ずっとのちの1920年代に入ってからです。

また広告代理店の業界誌『プリンターズ・インク』の名も、この新聞のインクの匂いが濃厚に立ちこめるパーク・ロウのムードから出ています。

広告代理店が新聞社の支配を脱して、広告主に従うようになるにつれて確立されたのは、いわゆる一業一社という原則でした。

言いかえれば、広告代理店は広告主と競争する同業者に対しては広告契約を取りかわさないということです。

★広告代理店

現在は広告代理店の手数料は2~3%となっています。

第2に、エイア社は、広告代理店が新聞社に対してではなく、広告主に対しサービスを提供するという原則を確立しました。

手数料はメディアからではなく、広告主から取扱高に応じて支払われる慣行をつくったことにも現れています。

しかし広告業発展の初期においては、広告代理店はスペース・ブローカーとして新聞社に隷属していました。

だから、彼らの小さなオフィスは「アメリカのフリート街」ともいうべきロワー・マンハッタンの新聞社街パーク通りーのビルにひしめき合っていたそうです。

なおジョゼフ・ピューリッツァーが死んだ1911年には、ニューヨーク市の新聞社14社中、彼の『ニューヨーク・ワールド』をはじめ、13社がここに集まっていました。

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